金曜日, 8月 15, 0020

重松清「疾走」読了

小説を一気に読んだのはいつぶりだろう?



本を読むことが得意でない私は、何日も何日もかけて



本を読む



すると、「読む」という行為自体が義務化して大抵ストレスに変換される



しかし、この小説 まさに疾走するように読んだ





この小説の感想をインターネットで検索すると、沢山の大絶賛とともに



残酷すぎる・暗すぎるという意見もかなり散見された



たしかに、いじめの描写や暴力描写などは、どれも目を覆いたくなるだろう



しかし、それを残酷すぎる・暗すぎる でカタつけていいのだろうか?



わたしは、上巻を読んだ感想は「暗い」より「痛い」である。



あまりの痛さに、途中で何度も本を投げ出そうと思ったほどだ



しかし、それは過去の自分と向き合わない不誠実さを感じて、また読み始める





下巻に再度、本を投げ出そうと思った箇所がある。それはイタミではなくイカリでだ。



主人公の少年が、同い年の女の子に何度も電話をするシーンだ。



電車に乗って主人公に会いに来る女の子の携帯電話に、何度も何度も電話をする。



女の子は足が悪く、松葉杖を突いて歩いている。そんな彼女に何度も何度も。



女の子は怒る。私も怒る。





少年と女の子は生を否定していた。しつづけていた。



こんな救いようの無い話でも、最後の最後に生を肯定する。



そこにこの小説の答えがあった。





読んでいるうちに、今まで読んだ本のタイトルや詩が何度か頭をよぎった



白夜行・イビサ・東京・



そのどれもが似ているようで、決定的に違うなにかがあったが



なぜか思い浮かんだのだ。





私にとって上巻と下巻はテーマが異なる。



上巻は過去・罪



下巻は未来・赦し





読み終えたときに思った



これは現代の聖書の詩篇だ・と





聖書にはことばがある。



しかし、そこに救いの答えはなく



ただ、読む人にことばを与えるのだ



そこから救いを見出すのは読む人なのだ



この小説も、一見すると救いの無い主人公の人生に



生を見出せるかは、読み人次第なのだ



私は最後のページの子供の名前を見た瞬間



思わず泣いてしまった。



ああ、私は生きていていいのだ・と



そう感じた。

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